Vol.99「選ばれし人」 マン
下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「ドイツ文学案内」(朝日出版社)より引用しています。 |
選ばれし人 Der Erwählte(1951) 小説
トーマス・マン Thomas Mann(1875-1955) ドイツの小説家・評論家
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あらすじ
あるキリスト教国に、グリマルトという君主がいた。妃バードゥヘナは、40歳を過ぎてから双生児の兄妹ウィーリギスとズィビュラを生んで世を去った。一つの部屋で大切に育てられた兄妹は、成長するにつれて深く愛し合うようになり、ついには自分たちにふさわしい相手はお互い以外にないと思うようになった。二人が17歳になったとき、父王が亡くなった。その悲しみの夜、ウィーリギスは、異常な興奮に駆られて妹のからだを求めた。
ウィーリギスが君主となったのちも、二人は深く愛し合って、夫婦同様の生活を続けた。ほどなくズィビュラは懐妊した。途方にくれた二人は、父王の忠臣アイゼングライン男爵に助けを求めた。男爵の提案でウィーリギスは、贖罪のために十字軍の遠征に参加した。ズィビュラは、男爵の補佐のもとに国政を行なうという口実で男爵の城にひきとられ、そこで極秘裏に一人の男児を生んだ。その子は、男爵の提言により、生後17日で堅固な樽に入れられ、小船に乗せられて海へ捨てられた。樽の中には、絹布と黄金と出生の由来を記した書字板とがそえられた。
愛児と別れて悲嘆にくれているズィビュラのもとに、なれない旅の疲れと妹との別離の悲しみからウィーリギスが行き倒れて死んだという知らせがとどいた。兄のあとを継いで女王となったズィビュラは、度重なる運命の過酷な仕打ちに、男爵を恨み、神を呪って海辺の城にひきこもり、きびしい禁欲の生活を送った。こうして6年が過ぎたとき、隣国の王子ロージャーに求婚された。彼女はあいまいな返答をして相手があきらめるのを待った。
ロージャーは、ズィビュラの冷淡さにかえって恋情をかき立てられ、7年の間執拗に求婚し続けた。しかし、ついにしびれを切らした彼は、軍隊をひきいて彼女の国に侵入した。ここにいわゆる「恋愛合戦」と呼ばれる戦いが始まり、5年のあいだ続いた。国土は荒廃し、人民は困窮して、誰もが女王の結婚を望んだが、女王は聞き入れなかった。
一方海に流された子どもは、一日二晩の後に、聖ドゥンスタン島の漁師と僧院長グレゴリウスにひろわれた。僧院長は子どもに洗礼を授け、グレゴリウスと命名した。子どもは僧院長の後見のもとに、漁師の家で無事に育てられた。そして6歳のとき僧院に引きとられて学問を受け、すぐれた素質をあらわした。また高貴で優雅な容姿をもつ彼は、いつしか自分の中に流れる高貴な血を予感し、ひそかに騎士にあこがれるようになった。彼は華奢な身体に似合わず武技に秀でていた。
17歳になったとき、彼をねたむ乳兄弟の挑戦を受けて決闘した彼は、乳兄弟の鼻柱をへし折ってしまった。義母は怒りのあまり彼を「捨て児」とののしった。非常な衝撃を受けた彼は、僧院長のもとへゆき書字板を読んで、自分の出生の秘密を知った。彼は自分の罪深い出生を嘆いたが、高貴な血を引くことをよろこび、騎士となって旅に出て、父母を探したいと願った。そして僧院長に別れを告げて島を出た。
彼が旅の途上、偶然に母ズィビュラの国に来たとき、恋愛合戦は5年目を迎えていた。彼はズィビュラの家来となり、求婚者を一騎討ちで倒した。戦争は終わった。兄以外の男を愛すまいと誓ったズィビュラであったが、不思議にグレゴリウスに惹かれ、臣下のすすめもあってグレゴリウスと結婚した。二人は深く愛し合い、9ヵ月後に女児が生まれた。そして3年後に女王は再び懐妊した。結婚以来二人はそれぞれ自分の秘密を相手に隠していたが、グレゴリウスは幸福の絶頂にあって、自分の出生とまだ見ぬ父母の苦しみを思い、毎朝ひそかに書字板を読んでは涙を流して懺悔した。これを侍女から聞いた王女は、夫の留守に書字板を見つけ、夫がわが子であったことを知って、愕然とし、運命を呪った。
グレゴリウスは、母に王位をおりて子どもとともに難民の世話をするようにすすめ、自分はぼろ服をまとって贖罪の旅に出た。(彼が旅立ったのち、母は二人目の女児を生んだ)。ある湖畔の一軒家で宿を求めた彼に、宿主の漁師が、湖の中の岩の上に鉄の足かせをはめて座り、贖罪の生活をするように提案した。漁師はそこへ彼を案内して足かせをはめ、鍵を湖に放り込んで、「あの鍵がまた見つかったら、お前を信じよう」と言って去った。この岩の上で彼は17年間、神を信じつつ苛酷な試練に耐えた。
17年の後、ローマ法王が歿したが、適当な後継者が見つからなかった。これを心配していたローマの有力者プローブスと、その友で僧侶のリベリウスが、同時に同じ夢を見て、「岩の上のグレゴリウスこそ法王である。彼を探しに行け」という神の声を聞いた。二人は旅をして、湖畔の漁師の家にたどり着いた。その夕方、漁師が釣った魚の腹から、足かせの鍵が出てきた。———こうしてグレゴリウスは法王となった。彼の名声はあまねく知れわたった。ほどなく彼は、母や二人の娘とも再会し、彼女たちのために修道院を建ててやった。その後彼らは心安らかな日々を送り、母は80歳、グレゴリウスは90歳の天寿を全うした。
付記
中期以後のマンの作品には、人間の典型を古い伝説の世界に求め、それに託して時代の状況やドイツ民族の運命などを、暗示的、象徴的に描く傾向が著しい。聖者伝説『グレゴリウス』に取材した『選ばれし人』もこの系列の作品で、二重の近親相姦の罪を負ったグレゴリウスが、17年にわたる贖罪ののちに、神の恩寵によってローマ法王に選ばれるという物語の筋は、中世の叙事詩人ハルトマン・フォン・アウエの『グレゴリウス』と全く同じである。ハルトマンは、純粋に宗教的な立場から、教化の目的でこの作品を書いたが、マンは、ドイツ民族の運命と、ドイツ民族に対する彼の愛と願いをこの作品に託したと見られる。すなわち、二つの近親相姦という罪は、今世紀ドイツが犯した二つの大きな罪———第一次大戦と第二次大戦を暗示している。
17年間の贖罪はドイツ民族への作者の要求であり、同じドイツ人の一人である作者自身の反省である。そしてこの贖罪の後にこそ、ドイツ民族の輝かしい未来が開けるのだという作者の期待が込められている。これは筆者の一解釈にすぎず、ほかにもいろいろな解釈が可能であろうが、それはともかく、この作品はマンのストーリー・テラーとしての才能をいかんなく発揮した傑作である。
「選ばれし人」
著者: マン