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Vol.96「フェードル」 ラシーヌ

Photo 下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「フランス文学案内」(朝日出版社)より引用しています。


フェードル Phèdre(1677)悲劇 5幕韻文

ジャン・ラシーヌ Jean Racine(16391699 劇作家

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 前提

 

 半神時代のアテネ王テゼは数多い武勲と恋愛で知られた英傑である。男を寄せつけぬアマゾンの女王を征服して生ませた息子イポリットは、母の血ゆえに恋を知らず、武芸のみを好む。現在の妻フェードルは、クレタ王で地獄の裁判官ミノスと、太陽神の娘パジファエのあいだに生まれた。この太陽神がかつて愛神ヴィーナスの秘かな恋をあばいたために、フェードルは愛神の呪いを受けている。テゼがクレタ島で血祭りにあげた半人半牛の怪物ミノトールはフェードルの弟、クレタの迷路からテゼを救う糸を織り、その後彼に孤島に捨てられたアリアーヌはフェードルの姉である。

 

 この事情はさまざまの登場人物によって、通念としてくりかえし語られ、フェードルの不倫の情熱に運命としての不可避性を与えている。また、ギリシャ・ローマの文芸を規範とする当時の教養層の観客にも、《ミノトールの血で煙るクレタ島》のような表現はじゅうぶんに神話の世界を想起させた。

 

 

 

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あらすじ

 

 

 

1

 

 イポリットは養育係テラメーヌに、行方不明の父を求めてこのトレゼーヌの王宮を出発すると告げる。だがテラメーヌがすでに海を越え地の果てまで探してきたのだ。イポリットの出発の真の理由が、テゼとアテネの王位を争って滅ぼされたパランティド兄弟の妹で、捕虜である王女アリシーへの秘かな恋の苦しさからと知って、テラメーヌは驚く。

 

 一方、フェードルは不思議な悩みで衰え、死を口にする。乳母のエノーヌが問いつめたその理由は、自分の子供の利益のために迫害してきた義理の子イポリットへの不倫の恋と知って、エノーヌは仰天する。折からテゼの死が伝えられ、エノーヌはフェードルの恋は普通の恋になったと、生きるよう力づける。

 

 

 

2

 

 イポリットはアリシーを自由にし、アテネの王位を返すと申し出る。驚きいぶかるアリシーにイポリットは、半年前から恋に落ち、《あなたがいれば逃げ、いなければ思い描き》、弓矢も乗馬も忘れ果てたとついに告白する。アリシーは彼の政治的申し出を受け、《けれどこれほど偉大で輝かしい帝国もあなたの贈物のうちでわたくしにとって一番貴重なものではございません》と愛を伝えて去る。

 

 フェードルが現われ、自分の子供たちの保護を頼むうち、夫の若き日の武者振りを語りながら《神々のみ姿のように、いえ、今見るあなたのように》と我知らず口を切ってしまい、恐れおののくイポリットを前に、激しい情念を一方的に告白、青年の嫌悪の表情を見て狂乱し、《わたしの汚れた恋を罰して》と迫り、彼が斬らないなら自害すると彼の剣を奪う。驚いたエノーヌはフェードルを連れ去る。テラメーヌが来て、アテネがフェードルの息子を王としたこと、けれどテゼ生存の噂が流れていることを伝える。

 

 

 

3

 

 フェードルはエノーヌに、すべてをイポリットにゆずって死にたいと語る。そこへテゼの帰還が伝えられ、罪の恋を告白した不名誉にフェードルは悩む。イポリットを政敵として見ているエノーヌは、先手を打って彼に罪を着せるようにすすめる。現われたテゼの前から恥じたフェードルは逃れ、イポリットも理由を明かさず出発するという。テゼは家族の態度にいぶかり、怒る。

 

 

 

4

 

 エノーヌが、フェードルに不倫の恋をしかけたのはイポリットだと語り終わったところから幕が開く。怒り狂ったテゼはイポリットの弁明を聞かぬうち、一度だけ願いを聞くとの約束を得ていた海の神ネプチューヌにイポリットの死を願う。イポリットは、フェードルの申立てを嘘だと主張するだけで、父を傷つけないために真相を話さず、また子としての義務から、父が敵視するアリシーへの愛を打ち明けるが、父テゼは疑いをそらす策略としか思わず、追放を命じる。

 

 テゼの怒声と呪いを聞いてすべてを告白するつもりでかけつけたフェードルは、イポリットがアリシーへの愛を告白したと知って、嫉妬のあまり、口をつぐむ。イポリットは女性を受けつけないという考えが彼女の救いだったのだ。アリシー殺害を口走り、絶望するフェードルを力づけようとして、エノーヌは、神々でさえ不倫の恋にふけったと慰めるが、フェードルはすべての破局がエノーヌのいらざる忠義立てから起こったと怒りを爆発させる。

 

 

 

5

 

 アリシーがイポリットからすべてを聞いたところで幕が開き、彼女は父に話すようにすすめるが、イポリットは父に恥をかかす気がない。イポリットが先にトレゼーヌを出て海辺の寺院で待ち、そこで結婚することを約す。テゼに会ったアリシーはイポリットが自分を愛しているのは本当だし、彼は潔白だというが、彼がいいたがらないことをいわせられないようにと、退出する。疑惑と不安に襲われたテゼはエノーヌにただそうとするが、エノーヌは海に身を投げたという。

 

 ネプチューヌに願いを聞かぬようテゼが叫ぶうちにテラメーヌが到着、涙と苦痛のうちに、海の化物との戦いに倒れたイポリットの最後を語る(《われらトレゼーヌの門を出ずるや……》に始まる73行の有名な“テラメーヌの注進”)。そこへ毒を呑んだフェードルが現われ、苦しい息の下で、イポリットの潔白と自分の罪を告白、死ぬ。テゼはイポリットの遺志どおりアリシーを自分の娘とすることを誓う。

 

 

 

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解説

 

 エウリピデス、セネカなどの古代の作品をふまえているが、それらの作ではイポリットがフェードルと関係したと非難され、またフェードルがみずから彼を告発しているのを和らげて、フェードルに高貴な精神を与えている。出版に際して序文に書いたように《フェードルは完全に有罪でもなく完全に無罪でもない》のだ。

 

 古代の作では完璧な英雄になっていたイポリットにアリシーへの恋という人間的弱点を加え、若い恋人という古典悲劇では二次的な役に押さえたのも、フェードルに立役の重みを加えている。堅固な道徳観念と鋭い自己省察を備えていながら情念を押え切れないフェードルに、運命の不可避的進行という、ギリシャ的な悲劇の理念を完成させている。怪物に驚いて馬どもが暴走、転倒した戦車に引きずられて死んだイポリットの血が点々としたたり、髪のついた頭皮が岩根にこびりつくという描写をふくむ“テラメーヌの注進”には典雅均斉な古典主義をはみ出す、美術でいうバロックの要素が見られる。

 

 ブイヨン公夫人らの“フェードルの陰謀”は宮廷政治がからんでいる。一味は筆の早いプラドンに同素材の作品をゲネゴー座にかけさせ、ラシーヌの方のブルゴーニュ座と両方の桟敷を買占め、客の入りを操作した。プラドンの弱々しい作品はフェードルをテゼの婚約者にして道徳的だとされたが、不倫の恋という根本主題を見失った愚作であることは、当時の観客にもやがて理解された。

 


「フェードル」

著者: ラシーヌ

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2011/10/06