Vol.80「パルムの僧院」 スタンダール
下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「フランス文学案内」(朝日出版社)より引用しています。 |
パルムの僧院 la Chartreuse de Parme(1839)小説
スタンダール Stendhal(1783-1842) 小説家
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あらすじ 《1796年5月15日ボナパルト将軍はロジ橋を突破した若い軍隊をひきいてミラノに入った》。この書き出しは本書が『赤と黒』と同様、政治を重要な軸とすることを示している。オーストリー帝国支配下の、無知を美徳とする旧制度の眠りにふけったミラノ人が、一挙に陽気さを取り戻す中で、頑迷なデル・ドンゴー侯爵はコモ湖畔のグリヤンタの居城に逃げ出す。残った侯爵夫人は宿舎割当を受けてロベール中尉をもてなす。貧乏なフランス革命軍士官の布製の靴を見て、侯爵の13歳の妹ジーナは、吹き出したが、中尉の苦労を聞いて夫人もジーナも涙を浮かべて感動した。 1799年4月、新任の将軍の無能のためにフランス軍はミラノを撤退、新イタリヤ国民軍の士官ピエトラネーラ伯爵と結婚して兄侯爵を絶望させていたジーナは軍隊についてフランスに行き、反動勢力の首領となったデル・ドンゴー侯爵に、次男ファブリスが生まれる。《多くの荘重なる大家の例に従い、わたしは主人公の物語をその出生の1年前から始めた》 ファブリスが2歳のとき、再びボナパルト将軍はミラノに入城、マレンゴの会戦に大勝利を収めた。侯爵は再びグリヤンタの城にのがれる。皇帝ナポレオンとなったボナパルトが設立したイタリヤ王国の宮廷で、近衛師団長ピエトラネーラ伯爵夫人ジーナは美と才気で輝いた。ジーナは、侯爵の方針でミラノのジェズイット学院にいたファブリスを宮廷に紹介した。それを嫌った侯爵はグリヤンタへ呼び戻す。母の侯爵夫人はファブリスの優雅さと無知の両方に驚き、今も文通を続けているA伯爵(以前のロベール中尉)に恥ずかしいと思った。《侯爵夫人は自分の愛する人に嘘を書くのは嫌だった》。ファブリスの真の父が誰かが、ほのめかされる。村の老司祭ブラネス師はラテン語より占星術を教え、彼の素直さを愛した。 1813年のナポレオン失脚で、侯爵はオーストリー帝国の大官に任じられるが、無能のため、ほどなく再びグリヤンタに引退する。ピエトラネーラ伯爵はだまし打ちで殺され、ジーナは夫の仇を討たないからと以前からの求愛者を辱しめ、提供された便宜を断る。だが妹がボナパルト派の将軍の未亡人年金で暮らすのを体面にかかわると考えた侯爵はジーナをグリヤンタに呼び寄せる。陰気な古城に活気がみなぎった。 1815年3月7日、コモ湖を渡って来た小舟が、ナポレオンのエルバ島脱出を伝えた。翌日ファブリスはジーナに言った。《ぼくは行きます。イタリヤ王でもあったナポレオン皇帝のもとへ行きます。皇帝は伯爵を好きだったのですからね》。ジーナは有金を全部与え、母も理解はできないながら、ダイヤを渡す。父と兄に秘密に出発、スイスから真情を吐露した手紙を書いて父をますます怒らせる。パリでは要領を得ず、金を盗まれ、ベルギーで軍隊に追いつく。イタリヤなまりで皇帝への熱狂を相手構わずしゃべる17歳の美少年は、怪しまれ小村の監獄に送られる。怒り狂って日を過ごし、看守の女房が彼の若さと美しさに同情して買収に応じたときになって初めて、スパイと思われていたのを知る。牢死した軽騎兵の服で脱走した彼は前途に牢獄の影を予感する。 ファブリスが乗り込んだのは6月18日のワーテルローの会戦であった。女の保護の価値を知った彼は酒保の女と近づきになり、よい馬を世話してもらう。この馬は彼をネー元帥の護衛隊に引き込む。川を越え、死傷者でおおわれた畑を横切り、一斉射撃で畑の土が一面に舞い上がるのを見、敵か味方か師団や連隊が遠くで線のように細くつらなるのを眺め、何もわからず、ただ護衛隊とともに駆け、通りかかった皇帝を見落としてがっかりし、護衛しているのがネー元帥でなくなったのに気づく。その将軍こそ往年のロベール中尉、A伯爵であった。夕方、A伯爵は負傷して馬を失い、英雄的友情で結ばれたと信じていた軽騎兵たちは、事もなげにいきなりファブリスを馬から担ぎ降ろし、伯爵を乗せて駆け去る。怒り狂った少年は酒保の女に再会、その馬車の中で眠り込み、目覚めたときは、歴史的な敗走の渦の中にあった……(『レ・ミゼラブル』のユゴーの総合的会戦描写に比し迫真力においてまさる)。 密かに帰国したファブリスは、兄アスカニオの告発で、自分がオーストリー警察に追われているのを知る。母と叔母が散歩のていで彼をミラノに連れ込む途中、旅券不所持で逮捕されたパルム公国のコンチ将軍と娘の12歳の美少女クレリヤを知り、憲兵を説いて馬車に同乗を認めさせる。火のような気性のジーナの一言で、かつて彼女にはねつけられた司教会員がオーストリー側と交渉、ファブリスは田舎町で正しい(つまり反動的な)意見を表明して暮らすことで落ち着いた。司教会員はジーナのファブリスに対する感情が叔母以上のものになっているのを見抜く。 ジーナはミラノで、パルム公国の警視総監モスカ伯爵を知る。かつてフランス軍とともにスペインで戦った才気ある人なのに、前世紀風に髪粉をつけて廷臣をしているのをからかわれたモスカは平然と“食わなければなりませんから”と答えた。45歳の伯爵は少年のようにジーナを恋し、ジーナに、遊戯としてパルムの宮廷に出、そこにはびこる退屈を吹き飛ばすことを提案した。別居していたが、伯爵は妻帯者なので結婚はできなかった。そこで、大金持の老人サンセヴェリーナ侯爵に、かねて希望の大使の職と勲章を与える条件で、ジーナと結婚させ、式の日にパルムを発ち決して戻らないことを承知させた。 大公エルネスト4世は戦場では勇敢だったが、腹立ちから自由主義者を処刑して以来、老婆のように暗殺を怖れ、それを恥じ、モスカのような才人にその恐怖心を正当化してもらうのを気休めにしていた。サンセヴェリーナ公爵夫人としてパルムの宮廷に出たジーナは、大公に恋され、宮廷に活気をもたらした。総理大臣となったモスカの指示でファブリスはナポリの神学校で3年を過ごし、多くの貴婦人に言い寄られるが、形だけで一向に真の恋心を感じない。(ナポレオンの決定的失脚後、ジーナとファブリスにとって楽しみも栄達もすべて次善の気晴らしであるのに注目すべきだ)。 モスカ伯爵は反対者で自由党と称するコンチ将軍を、自由主義者の監獄ファルネーゼ城塞の司令官にする。囚人に手心を加えれば怠慢となり、厳しくすれば真の自由主義者からは恨まれるという破目に追い込んだのである。在世の僧位を得たファブリスがついにパルムに現われ、ジーナは彼がイタリヤ一の美男子になっているのを発見する。ふたりの親密さを見たモスカは50歳という年齢に絶望、狂おしい嫉妬におちいる。ファブリスもジーナの行きすぎを警戒、叔母を愛しながらも恋を感じられないので、旅芝居の女優マリエッタに退屈しながら言い寄る。密偵の報告でそれを知ったモスカ伯爵の喜びとジーナの悲しみ。だが、マリエッタの夫で道化役者のジレッチに切りかかられ、マリエッタの投げたナイフでジレッチを殺したファブリスは他領に逃亡する。 反対党は正当防衛の目撃者を買収して国外に出し、欠席裁判で死刑を宣告させる(判事はすべて買収されている)。デル・ドンゴー一家の者が旅役者を無礼討ちにしたところで大したことでなかったのだが、これはモスカ追い落としの政治劇となったのである。大公も自分になびかぬジーナを苦しめたかったのだ。だが、泣き落としに出ると思ったジーナは平然といとま乞いに現われ、ナポリに去るという。大公はジーナのいない退屈と、パルムより大きな町で彼女の口から自分がからかいの種になるのを怖れ、判決文に署名しないと約束させられる。だが誇りを傷つけられた大公はファブリス逮捕を密命、反対党はにせ手紙でファブリスをおびき出す。捕えられ、城塞に送られたファブリスは入口でクレリヤ・コンチに再会する。 クレリヤは、捕われながら無礼な書記をなぐりつける彼の気位と優雅さに魅せられ、公爵夫人(ジーナ)の熱中がわかると思った。反対党の娘として、ジーナがモスカ伯爵をだまして、ファブリスと本当の恋仲なのだと信じていたのだ。ジーナが黒髪でふくよかなロンバルジヤ美人の典型なのにくらべ、クレリヤは金髪で蒼白なやせがたの美少女であった。12年の刑となって押しこめられたファルネーゼ塔の窓から長官の住居が見え、クレリヤの姿を露台で見、ファブリスは激しい恋におちた。紙に書いたアルファベットで恋を打ち明けるファブリスに、クレリヤは冷たくすることができなかった。私恨からあの書記が毒殺しようとしたのに心を痛めたからだ。 ジーナは、狂気のように彼女を恋するおたずね者で自由主義の詩人パラの助言を得て、脱獄の準備をする。大公は下劣な司法長官ラシに1か月の期限でファブリス毒殺を命じる。貴族にしてやるというえさに乗ったラシは大公の秘密命令をモスカにもらした。脱獄はクレリヤの協力なしには実現しなかっただろう。ジーナの発火信号にファブリスはここを出るなら死んでしまいたいと答えたのだ。クレリヤの説得でファブリスは彼女の持ち込んだ綱を伝って決死的な脱出に成功、総理大臣・警視総監モスカの部下に守られて国境を越える。だが当夜、心配のあまり頭がへんになったジーナは用心のため、手先にコンチ将軍にアヘンを盛らした。自分のせいで父が毒殺されると信じたクレリヤは、父が救われるならもうファブリスに会わないと聖母マリヤに誓った。 スイスのロカルノに居をかまえたジーナは、ファブリスがクレリヤを思ってふさぎ込むのを見て悲しんだ。さらに緊張で彼女は老けた。脱獄が成功したら大公を毒害するようにパラに命じ、激情のあまり接吻さえ与えてあったのだ。やがて、大公の中毒死が伝えられ、民衆の暴動とモスカ伯爵による鎮圧と若いエルネスト5世の即位が報知され、ジーナは母后(旧大公妃)の女官長として迎えられた。 モスカ伯爵の案では、ファブリスは無罪判決のための裁判に出頭するあいだ、モスカの勢力範囲の町の監獄に入る(毎晩叔母にも会いに行ける)はずだった。だが、ファブリスはクレリヤに会いたいばかりに城塞に出頭し、もとの獄舎に入った。名誉を傷つけられたと思っているコンチ将軍はもはや毒殺しか考えず、城塞は異様な緊張に包まれた。暴動の際の勇気をモスカにほめられて喜んでいた新大公は、モスカがうっかりもらした“あの子供”ということばを反対党から聞かされ、今やモスカを免職したいと願うほど状況は変わっていた。 夕食に毒が入ったと信じたクレリヤは、聖母への誓いも忘れ、獄卒の手を振り切ってファブリスの獄舎に駆けこむ。まだ手をつけていなかったファブリスはそれを明かすと彼女の宗教心が頭を持ち上げると思い、もう食べたと言う。《「ああ、わたしのたったひとりのかた、わたしも一緒に死ぬわ!」と叫んで彼女は彼を抱きしめた。着物は乱れ、情熱の極致にあった彼女のあまりの美しさに、ファブリスはあるほとんど無意識な動きを抑えることができなかった。なんの抵抗もなかった》(大岡昇平訳)。この簡潔な叙述は、場所の異様さと、霊肉一致する興奮のため、世界文学中で(ことばの最高の意味で)もっともエロチックな場面といえよう。これより少し前の時間、悲観的な情報に気も狂わんばかりになったジーナは、ファブリスを連れ戻す条件として、以前から父同様彼女に恋していた新大公の思いをかなえる約束をした。 ファブリスは町の監獄に移り、無罪の判決を受け、パルム大司教代理かつ未来の後継者に任じられ、コンチ将軍は毒殺未遂の件で免職、追放となる。ジーナはコンチ将軍が許される条件として、クレリヤが求婚者でパルムきっての富豪クレシェンチ侯爵と結婚するよう運動する。聖母への誓いからもクレリヤはもはや抵抗できなかった。新大公はおびえながらジーナに約束の実行を迫る。秘密に屈辱の一夜を過ごしたジーナは永遠にパルムを去り、辞職したモスカ伯爵はあとを追い、妻が死んでいたから、晴れて結婚する。 クレシェンチ侯爵夫人となったクレリヤが誓いを守り続けるのを悲しんだファブリスは一切の社交を断ち、美男の聖者の評判を得、女たちの熱狂の的となる。クレリヤを引き出すための熱烈な説教はついにオペラ座をからにするほどの名声を博した。町人の娘が一切の縁談をことわって、説教に通いつめて評判になったことから、嫉妬に動かされてクレリヤは説教に現われ、そのみごとさに自分の愛の選択に誤りのなかったことを知る。 再会したふたりは、誓いを守る方便として暗闇の中でしか密会しなかった。ファブリスを見ないという点は守れるからである。クレシェンチ侯爵の長男として生まれたサンドリーノはふたりの子であった。新大公は大臣たちの無能に驚いてモスカを呼び戻した。しかしジーナはパルム国境のすぐ外にとどまり、パルムの気のきいた人士は全部彼女の客間に集まった。 ファブリスはクレリヤを説き、侯爵の留守にサンドリーノを死んだことにして連れ出した。侯爵に旅行を命じたのは、初めてこの恋物語を打ち明けられて感動したモスカ伯爵であった。だが病気でもないのに寝かされたサンドリーノは病気になってしまい、数か月後に死んだ。自責の念に苦しんだクレリヤも数か月後に死に、ファブリスは一切の地位、財産を捨てパルムの僧院に引退、自殺の罪を犯すことなく1年後に死んだ。ジーナもその後いくらも生きていなかった。《パルムの監獄はからであった。伯爵は大富豪になっていた。エルネスト5世は領民からしたわれ、彼らは政府をトスカナ公のそれに負けないといっていた》。 ……………………………………………………………… 解説 自序に《この小説は1830年の冬、パリから3百里離れたところで書かれた。したがって決して1839年の事態を風刺するものではない》とあるが、まやかしで、1838年11月から12月にかけて、パリで口述筆記され、1839年春、上下2巻として出版された。スタンダール最後の長編であり、製作当時55歳であった。 『ファルネーゼ家興隆の起源』など16世紀イタリヤの年代記から、放蕩児で殺人者の貴公子がついに法王になるという風雲児のおもかげを把握、それを19世紀前半の動乱に投影させた構想は、若き日に経験したイタリヤの活気と逸楽を懐古的に愛着を持って描くことになり、その理想化された青春の美が逆に若い読者を魅惑する。 ワーテルロー以後のファブリスは常に孤立感を持ち、この点でも心理において自伝的といえる。これが反動期における熱と才ある人物の悲しい運命だった。したがって『赤と黒』におけると同じに政治はこの作品を支える軸のひとつであり、パルム公国という小さな舞台を設定することによって、権力機構の政治的作用と人物の心理の動きとを連動させることができた。 これは全く《1839年の事態を風刺する》ものである。1830年の革命の収拾策として成立したオルレアン王制の人気取りと弾圧のあいだを揺れ動く自信のなさと革命への恐怖は、いつかイタリヤ一番の立憲的名君という評判を得るという“奇妙な観念”にとりつかれたために、たとえ憎もうと有能なモスカを免職できないパルム大公の宮廷の振幅に、縮図化されている。警察国家の解剖図ともいえよう。 1840年、バルザックが〈パリ評論〉誌9月号の70頁にわたる長大な論文で『パルムの僧院』を《今世紀の傑作》と絶賛し、《マキャヴェリが19世紀に生きていて、イタリヤから追放されたら書いたであろうような》小説といったのは、この作品の政治的な面に注目していたのである。バルザックは書き出しのミラノの描写が長すぎるとし、ワーテルローから始めるべきだとすすめ、また結婚後のクレリヤとの情事は別の小説にゆずるべきだと批判した。『パルムの僧院』が一般の注意を引かなかった時期にその価値を見抜いたバルザックの目は確かだが、名が出るまで10年近く通俗小説のゴースト・ライターをしていたバルザックの、読者をそそる手法への好みが見られる。 スタンダール自身すでに1839年11月には訂正を試み始め、その後バルザックの忠告も考慮した。しかし、始めの部分については1841年2月5日、もとのままにすると決定している。終わりのクレリヤの部分は、元来、書店の要望で短縮されたもので、ジーナのパルムとの訣別以後は分量が少なく、スタンダールはこの部分を別の巻にし《1860年版は全3巻》と予定したが、死によって果たさなかった。 要するにある時代のある社会の政治的年代記という枠をはずすことはスタンダールにはできなかったのであり、ミラノにおける新旧の精神状態の分析という書き出しは、本体をなす、進歩を知ったあとの反動の時代における才気ある人間という主題の設定に、絶対に必要だったのだ。 イタリヤ人のいうbrio ブリオ(熱気)に満ちたファブリスとジーナはたがいにその本領を活動において発揮するためのきっかけになりあう相乗効果によって、忘れ難い魅力的人間像となった。自由主義的ながら貴族的本能を持っていたスタンダールは好んでこのふたりを、北方的な道徳的反省の欠けた、情熱的人物とした。内省的人物であるクレリヤでさえ、恋のためにはあらゆる口実を設けて聖母への誓いを破る。 『赤と黒』同様、無理解な父が実の父ではないという暗示が見られる。少年期から老年まで一生のあらゆる段階で毎年のように再読するに値いし、そのたびに味わいを増すといわれる名作である。
「パルムの僧院」
著者: スタンダール