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Vol.72「谷間のゆり」 バルザック

Photo 下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「フランス文学案内」(朝日出版社)より引用しています。


谷間のゆり le Lys dans la vallée1835書簡体の小説

オノレ・ド・バルザック Honoré de Balzac17991850) ドイツの詩人

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あらすじ

フェリクス・ド・ヴァンドネス子爵が、婚約者の伯爵夫人ナタリー・ド・マネルヴィルにあて、彼がときに深い夢想にふける理由を説明するため、長い書簡で青年時代の恋を語る。トゥレーヌ地方で、母に愛されず寂しい少年時代を送った多感なフェリクスは、ある舞踏会で気おくれから隅にいたとき、前に座った美しい夫人の豊かな肩の雪白の肌に魅せられ、接吻の雨を浴びせてしまう。夫人は驚いたが、自分のしたことを恥じて涙を浮かべている大人とはいえない青年なので、ひそかにたしなめただけですます。

フェリクスはアンドル河流域を散歩中、美しい小さな谷間とそこにある館を見つけ、“女性の中の花”であるあの夫人が住むのはここに違いないと直観した。事実、そのとおりだった。つてを求めてその夫モルソーフ伯爵に紹介された彼は、亡命の経験でいこじになった伯爵と話を合わせ、子供たちと仲よくなったので、夫人は彼を迎えざるをえなかった。はるかに年上の夫の冷酷さと子供の虚弱に悩まされていた夫人は彼の中に初めて共感者を見出す。だが夫人は彼の愛の告白をしりぞけ、信仰心から妻としての義務を守る。

ナポレオンが倒れ王政復古となり、モルソフ家の立場が好転。その引き立てでフェリクスはパリの宮廷に出る。偽善的社会で偽りにおちいらずに身を守るための教えを説いた夫人の手紙を、アランはいつの世の青年にも精読をすすめられると激賞している。フェリクスは“谷間のゆり”と名づけた夫人への愛にもかかわらず、官能的なイギリス人ダッドレイ伯爵夫人の誘惑に負けた。

その評判を耳にしたモルソフ夫人は悲しく諦めたが、重病になりすべての食物を受けつけなくなった。フェリクスが駆けつけたとき、夫人は飢えと熱にうかされて錯乱し、“わたしの一生は嘘ばかりでした”と恐るべきことばを吐き、彼への肉の愛を語り、ダッドレイ夫人のように思うままのことをしたいというのだった。外にはぶどうの取り入れの農民たちの歌声が聞こえ、空気は豊かに甘いぶどうの香りに満ち、夫人は飢えに死ぬのだった。しかし臨終の彼女は以前の清らかさを取り戻した。残された手紙には、満たされなかった欲望と、不倫の嫉妬から死に至った心境が語られていた。

解説

本作の執筆の動機は作者の才能を認めなかった批評家サント=ブーヴの唯一の小説『愛欲』(1834)を上回るものを書くことにあったが、バルザックの傑作のひとつとなった。

またフェリクスの少年時代は、《哲学研究》系列の作品を除けば、この作者にはめずらしい自伝的要素が入っている。モルソフ夫人のモデルは初恋の人ベルニー夫人といわれる。一見極めて写実的なこの小説にも、バルザックの特異な世界観が強烈に反映している。フェリクスもモルソフ夫人も肉体と精神の対立にさいなまされたのであり、夫人の病気は抑圧された肉体の反乱である。  

この名作は末尾にあるマネルヴィル夫人の短いが機知に満ちた手紙でさらに光彩を放つ。夫人はフェリクスに別れをつげ、次の恋人には以前の3人の女性の物語を細かくして悩まさないように忠告、モルソフ夫人の件を教訓にせず、彼女の反応を予見しなかったひとりよがりを皮肉る。


「谷間のゆり」

著者: バルザック

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2010/11/08