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Vol.51「トーニオ・クレーガー」 マン

Photo 下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「ドイツ文学案内」(朝日出版社)より引用しています。


トーニオ・クレーガー Tonio Kroger(1903)短篇小説

トーマス・マン Thomas Mann18751955) ドイツの小説家・評論家

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あらすじ

北ドイツの豪商クレーガー家の息子14歳のトーニオは、勉強よりも詩や音楽が好きな夢想的な少年である。彼は、クラスの優等生で快活な金髪の美少年ハンス・ハンゼンを理想像としてあがめるほどに熱愛している。が、詩や音楽の世界と無縁の世界に住むハンスは、トーニオの心を理解することができず、当惑と軽蔑との入りまじった無関心な態度でデリケートなトーニオの心をいつも傷つける。こうしてトーニオは、「最も多く愛する者は敗者であり、苦しまなければならない」ことを早くも知った。

16歳になったトーニオは、ダンスの講習会で知りあった陽気な金髪の美少女インゲボルク・ホルムに熱烈な思いを寄せるようになった。しかし、彼女もハンスと同じ世界に住む人間であった。そしてトーニオの不器用で臆病な愛情の表現を笑いものにして、彼を傷つけるだけであった。それでもトーニオは幸福であった。「幸福とは愛することであり、ときおり愛の対象へおずおずと近づいてゆく機会をとらえること」であると、身にしみて感じたからである。

少年時代に早くも愛の苦悩とよろこびとを知ったトーニオは、やがて自分なりに生きて仕事をしてゆこうと決意する。そのころ、謹厳で身だしなみのよい、ものしずかな父が亡くなり、一家は破産した。南国生まれの芸術家肌で情熱的な母は、音楽家と再婚して町を去った。

トーニオは作家としてしだいに世に認められるようになった。しかし、「すぐれた作品は、ただ苦しい生活の圧迫のもとでしか生まれず、生きる者は創る者ではなく、創造者となるには死んでいなければならない」ことを身をもって体験した彼は、「人間的なものにあこがれ、人間的なものを描きながら、それとは無縁の生活」をしなくてはならない芸術家の孤独と苦悩とを、いやというほど味わわなければならなかった。

トーニオは、ミュンヒェンで知り合ったロシア生まれの女流画家リザヴェータ・イヴァノーヴナに、文学は天職などというものではなく、呪いだ、芸術家のいとなみには、「認識の嘔吐」と言いたいようなものがある、と自分の苦悩を訴える。そして、人間的な幸福へのあこがれ、平凡なもののもたらす数々の快楽へのひそかな、身を焼くようなあこがれと無縁の人間は、まだまだ芸術家とはいえない、というトーニオに対して、リザヴェータは一言で答えた。「あなたは道に迷った俗人です」と。

休養のためデンマーク旅行の途中、故郷の町を訪れたトーニオは、かつてのクレーガーの邸が大衆図書館になっているのを見た。さらにバルト海沿岸に旅した彼は、ある海水浴場のホテルで、ハンス・ハンゼンとインゲボルク・ホルムの姿を目撃した。この晴れやかで幸福そうな恋人同士を見ているうちに、あの少年の日の思い出がよみがえり、甘美でせつない郷愁が彼の胸をしめつけた。彼らこそは、健全な市民性の化身、幸福な凡庸性の象徴であった。彼らこそは「生命」であり、「魂の故郷」であった。トーニオはもう彼らの世界に帰ることはできないのだ。苦い悔恨のような思いが彼の心にしのびよった。ホテルに帰ったトーニオは、リザヴェータにあてて手紙を書いた。「私は明朗で生き生きとして、幸福で平凡な人たちを愛します。そしてそれが私の幸福であり、創作活動の原動力ともなるのです。幸福な市民へのあこがれが創作活動の原動力となる芸術家も、この世にいるということを理解して下さい」と。

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解説

健全で幸福な生の世界にあこがれつづけながら、その中に溶け込むことのできない芸術家の宿命的な孤独と苦悩とを、音楽的な文体で甘美に描きあげたこの作品は、ドイツ文学の、いや世界文学の短篇中の屈指の名作であろう。

市民は生活を生きるが、芸術家はそれを自己の創作の対象として観察し、理解し、表現しなくてはならない。すなわち、生活を生きるのではなくて、生活の外に立っていなくてはならない。南国生まれで、芸術の申し子のような母と、北ドイツの実直で謹厳な父とのあいだに生まれたトーニオは、母から受け継いだ芸術に向かう素質と、父から受け継いだ健全な市民性へのあこがれとの相克に苦しむ。

リザヴェータは、彼を「芸術の世界に迷いこんだ俗人」ときめつけたが、トーニオは、やはり自分が芸術家であること、そして正常で、秩序正しい、愛すべき生への満たされ得ぬあこがれこそ、彼の芸術の母体であるという認識に到達して、はれやかな心になる。

この短篇には、マンが半生をかけて追求した文学上の諸問題がすべて、萌芽として盛りこまれている。音楽を愛したマンは、この作品に意識的に音楽性を付与した。個々の文章のリズムに心をくばることはもちろん、作品全体の構成の上でも音楽形式をとり入れたのである。これは、翻訳で読む場合は感じとりにくいことであるが、それでも注意深い読者ならば、同じ語句や同じ表現があたかもメロディーが反復されるように繰り返され、ヴァリエーションを加えて展開するのに気がつくであろう。作者自身もこの作品に強い愛着をもち、自分の心に最も近いものだと告白している。


「トーニオ・クレーガー」

著者:マン

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2010/03/19