Vol.33「白鯨」 メルヴィル
下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「アメリカ文学案内」(朝日出版社)より引用しています。 |
白鯨 Moby-Dick; or, The Whale(1851)長編小説
ハーマン・メルヴィル Herman Melville(1819-1891) 小説家
「知的ごった煮」
生前は、顧みられることはなかった。20世紀になり、評価が高まり、今では、世界屈指の文学作品。元来、船乗りとしての体験を生かした、伝記的色彩の濃い作品となるはずであった。しかし、シェイクスピアや聖書、さらに、ホーソーンなどから強い影響を受け、哲学的深みを増し、象徴性を帯びる。鯨学、博物学、宗教、哲学とさまざまなものを含み、「知的ごった煮」(intellectual chowder)と称されている(E・ダイキンク)。エイハブ(Ahab)、イシュメール(Ishmael)、いずれに重点を置いて読むか。これによって、作品テーマは異なる。
エイハブを中心とした読み
エイハブ船長にとって、モービー・ディックとは何か。足を噛み取った「畜生」とすれば、船長の白鯨追及は、ただ単なる個人的な復讐。「宇宙の悪」とすれば、この世の巨大な悪に立ち向かう英雄的な行為。「宇宙の究極」とすれば、宇宙の核心、即ち、神の創造に挑戦する不遜な行ない。と同時に、本来見極めきれないはずのものを、見極めようとする人間の愚かな行為。
イシュメールを中心とした読み
イシュメールは、どのように物語を語るのか。「僕のことをイシュメールと呼んでくれ」(Call me Ishmael)。これは、一人称小説との宣言。しかし、イシュメールが見たり聞いたりしていない事柄や、本来窺い知れないはずの登場人物の内面まで、個人の権限を超えて語られる。
また、イシュメールは、どのように世界を捉えるのか。白を見ていると、「宇宙の無常な空虚さとか広漠さが表われているように感じられる。それは、白が定めないからではないのか」。「白さ」とは、「意味が詰まった、押し黙った空虚さ」(a dumb blankness, full of meaning)。イシュメールの心には、虚無的な思いが去来する。宇宙に意味を見出せないイシュメールが、白鯨の正体(意味)を明らかにしようとするエイハブと、どのように関わるのか。
天涯孤独の身
イシュメールは、天涯孤独。金もない、心も晴れない。地上では、興味を引くものもない。死ぬ代わりに、海に出てみようと思う。ニューべッドフォード(New Bedfofd)に行き、鯨取りの習いに従い、捕鯨船員教会堂に立ち寄る。マップル神父(Father Mapple)の、ヨナについての説教を聞く。神父の言葉は、実に意味深い。「神に従えば、自分自身に背かなければならない。神に従うのがむずかしいのは、こうして自分自身に背かなければならないからだ」。ナンタケット(Nantucket)に行く。
老船長から、エイハブについて、謎めく言葉を聞く。エイハブは、「神をも恐れない、神のような男」(ungodly, god-like man)。
異人種の集まり
やがてイシュメールは、ピークォド号(Pequod)に乗り込む。船には、様々な人間がいる。一等航海士、スターバック(Starbuck)。世の習い通りに価値判断を下す現実主義者。二等航海士、スタッブ(Stubb)。エイハブ船長に殴りかかろうとする。が、不思議なことに、跪きたい気にかられる。
その他、三等航海士のフラスク(Flask)。そして、異教徒の銛打ちたち。高貴な人食い人種、クィークェグ(Queequeg)、アフリカ出身の黒い肌のダグー(Daggoo)、アメリカ・インディアンのタシュテゴ(Tashtego)など。異人種も多く、船全体がさながら世界そのもの。
宇宙の本質への挑戦
甲板上でのこと。片足のない男が、足代わりに、抹香鯨の顎の骨を支えにして立つ。日焼けした顔に、白い傷。傷は白髪交じりの頭から、首筋へと走る。この男こそ、エイハブ船長。船長は、海を遠く見つめる。ゆるぎない視線、断固とした意志。それもそのはず、片足を噛み切られて以来、モービー・ディックに狂おしい憎しみを抱く。
しかしエイハブにとって、モービー・ディックは、ただ単に個人的な復讐の対象ではない。宇宙の本質を隠す「仮面」(mask)ないし宇宙の本質を阻む「壁」(wall)である。「いいかね、もう一度よく聞け。(中略)目に見えるものは、すべて、ボール紙でできた仮面のようなものに過ぎない。(中略)その壁を突き抜けなければ、囚人は、いったいどのようにしたら外に出られるというのか」。
モービー・ディックは、また、この世の悪でもある。「白鯨は、悪意ある働きが形あるものに凝り固まった姿として、エイハブの眼前を泳いで行った」(The White Whale swam before him as the monomaniac incarnation of all those malicious agencies)。したがって、モービー・ディックを射止めることは、宇宙の本質を射止めること。この世の悪を見極めることにも通じる。
遍在する鯨
モービー・ディックは、空間を越えて存在する(ubiquitous)。こちらの海洋を泳ぐかと思うと、あちらの海洋に姿を現わす。海面に浮かび上がるかに見えると、海底深く潜り込む。モービー・ディックは、また、時間をも越えて存在する(immortal)。「不滅とは、時間的に遍在すること」。今泳ぐ鯨の姿は、太古の昔泳いだ姿と何ら変わりがない。「永遠の鯨は、なおも生き続け(中略)挑戦するかのように天空に潮の泡を吹き上げる」。
ピークォド号は、くる日もくる日も、虚しい航海を続ける。途中、様々な船に遭遇する。ある日、レイチェル号に出会う。エイハブは、ガードナー船長(Captain Gardiner)に問う。「白鯨を見たかい」。「ああ昨日見た」。エイハブは、息子を捜して欲しいとの船長からの要請をも断わり、ひたすらモービー・ディックを追い求める。
3日間に及ぶ死闘
ついに発見。「潮を吹いている。雪の山のような瘤。モービー・ディックだ」。船乗りたちは、短艇を下ろし、挑む。しかし、白鯨に、短艇を二つにへし折られる。エイハブと部下は、命からがら母船に戻る。
死闘は、二日目も続く。エイハブは、義足を切り取られる。もうやめるようにとのスターバックの忠告にも、けっして耳を貸さない。
死闘三日目。狂ったようにピークォド号に突進するモービー・ディック。すかさず銛を放つエイハブ。銛は、みごとに命中。だが、白鯨は不死身。飛ぶように走る。綱がエイハブの首に巻きつく。エイハブは、海中深く引きずり込まれる。船も海の藻屑と消える。イシュメールは、クィークェグの作った棺桶につかまり、ひとり助かる。そして、冒頭に戻り、物語を語る。「僕のことをイシュメールと呼んでくれ」
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「白鯨」
著者: メルヴィル