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Vol.27「ボヴァリ夫人」 フロベール

Photo 下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「フランス文学案内」(朝日出版社)より引用しています。


ボヴァリ夫人 Madame Bovary1857小説

ギュスターヴ・フロベール Gustave Flaubert18211880) 小説家

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あらすじ

シャルル・ボヴァリは中学のころから気の利かない、けれど律義な少年であった。当時、本式の医師免許なしで医療行為を許された“保健官”(1892年新規採用停止)となったシャルルはノルマンディーの農村で開業するため、母にいわれるままに小金を目当てに年長の未亡人と結婚する。

幸福をもたらさなかったこの妻が死んだあと、患者の農園主ルオーの娘で健康な娘エマに好感を持ち、嫁にもらう。エマは上流社会の娘たちの行く修道院で教育を受けたせいで、書物からあらゆる種類のロマンチックな夢想を頭につめこんでいた。農村風に盛大な結婚祝いのあとすぐに、エマはシャルルの平凡さにがっかりした。詩だの空想だの情熱だのは彼には無縁だったのだ。夫の患者のさる侯爵から一夜の舞踏会に夫婦で招かれたエマは本で読んだ優雅な生活や“子爵さま”と踊った急調子のワルツなどの快楽が、実際に存在していることを知り、倹約な小市民生活にも嫌悪を感じる。

上品ぶりの一時期のあと、絶望から無気力におちいり、家事をかえりみなくなる。夜会で見た貴族の夫人たちの中に自分より姿もよくなく、態度も品が落ちる女性が多いではないか、と不公平を嘆く彼女が、今いる村の生活をこぼし続けるので、夫ボヴァリはいばらないので信用のついた土地を惜しみながら、県庁所在地ルーアンから8里のヨンヴィル村の医者となる。

役場や店のある通りが1本あるほかは農村で変わりばえしない。薬剤師オメーは18世紀的啓蒙思想を今さらのように振り回す反教会主義の科学万能主義者で、百科事典そのままのような話しかたで村人を驚かすが、一方では商売に抜け目のない俗物である。公証人の若い書記レオン・デュピュイだけがエマと共通の話題を持っていた。《——日曜日にはそこ(丘)へ行きます。本を持ってじっとして、日の入りを眺めています。——日の入りほどみごとなものはありませんわね。それに海辺ではとりわけ。——おお! 海は大好きです、とレオン氏は言った》。若い田舎者レオンは“ご婦人”と2時間も続けてしゃべったのは初めてだったので感激した。(村のホテル兼レストラン“金ライオン亭”で、オメーがシャルル相手に展開する疑似科学的駄弁の脇に花咲くエマとレオンのひそかな感動に満ち始める対話は、何十年もおくれて初期ロマン派風の紋切り型を、真の才気も感受性も欠いたままなぞっているのは明らかだが、作者は何の意見も態度も示さない。)

やがてレオンはエマを思いつめ、エマも同じだったが、ふたりとも言い出せず、レオンは思い切ってパリ遊学の時期を早めて去る。エマはその時になって惜しく思った。が瀬戸際まで行った欲望は、農園主でしゃれたところのある小金持ちロドルフ・ブーランジェの出現で満たされた。34歳で独身の彼は色事の経験が豊富で、“まるでパリ女のようだ”と思ったエマとらちを明けるのも早かった。だがふと後悔に襲われ、夫を愛すことができればいいのにと思うのだった。

シャルルがオメーにそそのかされて、新着の医学雑誌をたよりに、宿屋の下男のえび足の手術をすることになった。エマはそれで名声と富を得ることを夢み、“無料で”手術してやるようにすすめる。手術は成功のように見え、エマは自分にいつも優しくしてくれる夫にいくらか愛情を持てたのを喜んだ。だが、手術した足はえそになって、町から呼んだ医者はシャルルの悪口をいいながら切断した。

エマはもう貞節を守る気はまったくなくなり、ロドルフにうるさくし、喜ばれもせぬ高価な贈り物を重ね、雑貨屋ルールーのつけを増やした。ついに駆け落ちをもちかけ、旅行かばんや用具をルールーに注文する。ロドルフは承知はしたが、事が面倒になったので、ひとりで土地を去る。

エマは脳炎を起こしてしまった。回復期に夫が連れて行ってくれたルーアンの劇場でレオンに再会する。貧乏書生で3年間大した経験もしていなかったが、パリ帰りだというだけで気の大きくなったレオンはやっとエマに求愛した。ピアノのレッスンに名を借りたルーアン通いが始まる。今や愛欲の経験のある彼女は若いレオンを引き回す。勤め先にまで呼び出しをかける彼女にやがてレオンはいやけがさし、出世のさまたげと感じる。

かさむ費用のやりくりに彼女の生活はうそだらけとなり、情事は結婚生活の平凡さに堕し、彼女はしあわせでない。そこへ雑貨屋ルールーを通じての借金8千フランの支払命令が裁判所から来る。24時間の期限のうちにレオン、ロドルフと駆けまわるが、迷惑がられ、ついに、オメーの薬局に飛び込み、小僧の目の前で、ヒソの粉末を手づかみで食べる。帰宅した彼女は差し押さえに驚く夫に口もきかない。やがてヒソ中毒のあらゆる症候を経て、苦しみのうちにエマは死ぬ。

娘とふたりで寂しく暮らしたシャルルはやがて手紙の束から事実を知り、ふぬけになって、まもなく死ぬ。オメーは“公益”のために活躍、勲章を受ける。

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解説

作者が顔を出さない客観的な描写を初めて完成した文学史上特記すべきこの作品について、作者が“ボヴァリ夫人? それはわたしです”といっているのは、ロマン派的な主人公への感情移入ではない。

エマの愚かしいロマンチック癖を冷酷に描きながらも、彼女が感じる周囲の俗物への嫌悪は、まさにフロベール自身の血にたぎるものを注ぎ込んだからである。シャルルの愚直、情人たちの身勝手はまだしも、薬剤師オメーこそ俗物の怪物化であり、社会的強者であり、フロベールのもうひとつの憎悪の的である科学万能主義者として、自虐的な精密さで描かれている。《わたしは事物を目に見えるままに報告し、真実とわたしに思えるものを表現するにとどめています。その結果がどうあろうと関知しません》(サンドへの手紙)。

客観描写という手法を生み、写実主義、自然主義あるいは今日ではヌーヴー・ロマンとの連関を言われることになるフロベールにとって“真実”は悲観的であり、人間性に絶望したその現実嫌悪の深刻さは救いようがなかったのだ。彼自身どんなに精神の高貴を自負しようとも、一言でいえば田舎のおばさんであるエマのロマンチック癖と同じことにすぎない。

“それはわたし”なのだ。《この愛から結果すべき幸福がやって来ないので、(彼女は)間違いをしたのに違いないと、彼女は思うのだった》。このように作中人物の考えていることが地の文として書かれる“自由間接話法”を創始、人物の内面と外面の境界を消去した感じを与えた。

18565月完成。削除した形で雑誌に連載、風俗壊乱で起訴され無罪となる。完本刊行が57年。


「ボヴァリ夫人」

著者: フロベール

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2009/06/17