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Vol.23「ノートル・ダム・ド・パリ」 ユゴー

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下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「フランス文学案内」(朝日出版社)より引用しています。




ノートル・ダム・ド・パリNortre-Dame de Paris1668) 舞踊喜劇5幕散文

ヴィクトル・ユゴー Victor Hugo18021885) 詩人・劇作家・小説家

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あらすじ

ルイ11世治下の15世紀末のパリ。やぎを連れて予言と踊りをするジプシー娘エスメラルダの美はひとの心を動かし、ノートル・ダム寺院の副司教フロロは運命的な恋におちた。彼は、拾って育てて鐘つき男にしたせむしで怪力の持主カジモドに、エスメラルダをさらわせようとする。だが、衛兵隊長フェビュスがエスメラルダを救い、カジモドを捕える。少女は美男の隊長を恋してしまう。カジモドはむち打ちの刑になり、広場にさらされ、のどの渇きに苦しんでいるとき、水を持って来てくれたエスメラルダを忠犬のように愛してしまう。

隊長フェビュスには、エスメラルダは浮気の相手にすぎず、あいびきに応じる。あわやというときに、嫉妬に狂った副司教フロロが飛び出し、フェビュスを刺して逃げる。事件の犯人にされたエスメラルダは、寺院前の広場で絞首刑になる寸前、綱を伝って降りたカジモドに救われ、聖域である寺院の鐘楼にかくまわれる。

ジプシー、乞食、盗賊の大集団が彼女を救い出そうとして押し寄せ、その意図を誤解したカジモドは、建築材料や煮えた鉛を浴びせて撃退する。このさわぎに乗じてフロロはエスメラルダをつかまえ、自分か絞首台か、選べと迫る。むしろ死を選ぶエスメラルダを、怒ったフロロは、昔ジプシーに女の子をさらわれ、ジプシーを憎んでいる老尼に引き渡す。ところが何とエスメラルダこそ、さらわれた娘なのがわかる。代わりに置いていかれたのが、カジモドだったのだ。

再会の喜びもつかのま、エスメラルダは逮捕される。処刑の日、フロロとカジモドはノートル・ダムの塔上から眺めていた。肉欲に狂った副司教フロロは、吊るされたエスメラルダの体がひきつるのを見て、悪魔のように笑う。

復讐の鬼となったカジモドは恩人フロロをかつぎ上げ、はるか下の広場へ投げ落とし、姿を消す。その後、処刑人墓地で、エスメラルダの骨をしっかり抱いているせむしのがい骨が見られた。奇縁につながるふたりは死の中で結ばれたのだ。

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解説

この作品のすべては作者のノートル・ダム寺院の凝視と幻想によってできている。画をよくしたユゴーの、対岸から見たこの寺院のデッサンでは、後陣との均衡から見て尖塔が異常に高く天を突く。実際でも69mの高さだが、これでは100mもありそうだ。12世紀から14世紀にわたって建造されたこの巨大なゴチック建築の内外、そのたたずまい、そして活気にあふれる中世パリの曲がりくねった街路に息づく群衆の雄大な絵巻が、やや大げさな筋立てをみごとに支えて、作品の密度を濃くしている。

題名のとおり、ノートル・ダム寺院こそこの作品の主人公なのだとする評さえある。このいきいきとした描写は、ロマン派の中世好みを決定的にしたが、歴史的確実さはなく、すべて強烈な空想の産物である。このイメージが10世紀以後500年間のパリの姿として定着してしまうほど強い印象を残した。

純真だがむとんじゃくなジプシー娘、あるいは運命の女、また外面は醜いが精神は清らかな男、肉欲と戦いながら押さえ切れない僧などの、さまざまな文学的類型の源泉となった作品としても注目される。


2009/05/20