Vol.22 「ファウスト」 ゲーテ
下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「ドイツ文学案内」(朝日出版社)より引用しています。 |
ファウスト Faust(第1部1808/初演 29、第2部 1832/初演 54)悲劇
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe(1749-1832) ドイツの詩人・小説家・劇作家
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冒頭には、「献げる言葉」、「舞台の前曲」、「天上の序曲」という三つの前置きがついている。「天上の序曲」では、天上界で悪魔メフィストーフェレスが神に向かって、神の最もすぐれた被造物である人間をけなし、神が愛しているファウストを誘惑して神の手から奪ってもよいかとたずねるのに対し、神は「人間は努力する限り迷うものであり、よい人間は暗い衝動に動かされることがあっても、正しい道を忘れることはない」と答え、ファウストが地上に生きているあいだは悪魔の自由に任せることを承認する。
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第1部
哲学・法学・医学・神学などすべての学問を究めつくした大学者ファウスト教授が書斎にすわっている。50代半ばをすぎた彼が学問の結果知り得たことといえば、結局「何も知ることができない」ということだけであった。研究生活に失望した彼は魔法で地霊をよびだし、宇宙を支配する力の秘密を探ろうとする。しかし、彼の招きに応じて地霊が姿を現わすと、そのあまりにも偉大な姿に打ちのめされてしまう。自己の無限の知的欲求を満たすには、有限の肉体から解放される道しかないと感じた彼は、毒を飲んで死のうとする。その時、復活祭の鐘の音と聖歌の合唱が聞こえてくる。その若々しい生命の調べに感動して、ファウストは死を思いとどまる。
翌日は復活祭である。ファウストが、助手のヴァーグナーと郊外を散歩していると、ムク犬に姿を変えた悪魔メフィストーフェレス(略称メフィスト)がついて来て、書斎に入り込む。この散歩でおだやかな気分になったファウストは、方向をかえて、宗教の領域から宇宙の秘密に迫ろうと試みる。そして、ヨハネ福音書の冒頭の句「初めにロゴスありき」をドイツ語に訳そうとして、ロゴスという言葉を、「言葉」、「意味」、「力」などと解釈してみたあげく、「行為」という訳語を得て得心する。さて聖書に没頭しているファウストに不安を感じたムク犬のメフィストが騒ぎたてたため、ファウストは魔術を使ってムク犬の正体を見破る。メフィストは、とりあえずその場をのがれた。
数日後、騎士の姿をかりてファウストの書斎を訪ねたメフィストは、彼を「広い世界」に誘い、あらゆる歓楽を味わわせてやろうと申し出る。彼はそれを承知し、メフィストと賭をして、この世ではメフィストがファウストの奴隷として仕える代わりにファウストがメフィストの誘惑によって満足を見出したら、すなわちファウストがある瞬間に対して「とどまれ、お前は美しい!」と言ったら、その時、ファウストは死んでメフィストに魂をやってもよいという契約を結ぶ。メフィストは、ファウストを20代の美青年に若返らせる。
青年ファウストは往来でマルガレーテ(愛称グレートヒェン)に会う。一目でグレートヒェンに魅せられたファウストは、メフィストの助けで彼女に近づいたが、清純な彼女を誘惑することに良心の呵責を感じて森のほら穴に引きこもってしまう。そのファウストを慕うグレートヒェンは、「糸車の歌」をうたいながら、思い悩む。ふたたびメフィストにそそのかされてグレートヒェンに会ったファウストは、彼女と愛し合うが、あいびきするために、グレートヒェンの母に飲ませた睡眠薬の分量を誤ってしまい、母は死んでしまう。
グレートヒェンの堕落を憤った兄は、ファウストと決闘して殺される。さらに、ファウストの子供を生んだグレートヒェンは、さまざまな苦悩に耐え切れず、気が狂ってわが子を殺し、牢獄につながれる。ファウストは、メフィストの力を借りてグレートヒェンを救い出そうとするが、グレートヒェンはファウストの背後にいるメフィストを嫌って、牢獄にとどまり、神の裁きを受ける決心をする。「女は裁かれた」というメフィストの叫びに対して、「救われた」という声が天上からひびく。ファウストの立ち去る後から、グレートヒェンの悲しげな「ハインリヒ、ハインリヒ!」と呼ぶ声が聞こえる。
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第2部
ファウストは、疲れ果てて花の咲く野に横たわる。大自然の妖精たちは、昏睡するファウストのまわりを漂いながら、苦悩と疲労をしずめてやる。新しい生を得て目覚めたファウストは、滝のしぶきにかかる七色の虹を見て、「人生は彩られた映像としてのみ把握しうるのだ」と悟り、晴れやかな気分で、現象の世界にふたたび歩み寄る。
宮廷の道化に化けたメフィストの協力で神聖ローマ帝国の窮迫した財政を立て直したファウストは、皇帝の厚い信任を得た。財政上の不安から解放された皇帝は、ファウストにギリシア神話の美女ヘーレナと、美男パリスを呼び出すことを命じる。そのためには、ファウストは、「空間も時間もない母たちの国」へ行って三本脚の香炉をもって来なくてはならない。その未知にして「絶対」の境に行って、無事に彼が帰って来られるかどうかメフィストは、不安を抱く。しかし、「戦慄は、人間性に与えられた最高の徳である」と信じるファウストは、虚無の中に砕け散ることもおそれず、勇んで出発した。
祭司の服装をし、香炉をもったファウストが、皇帝や貴族たちの居並ぶ広間に現われ、灼熱する鍵で香炉に触れる。すると、ヘーレナとパリスが現われる。ヘーレナの美しさに魅せられた彼は、ヘーレナを連れ去ろうとするパリスに我を忘れて追いすがり、魔法の鍵でパリスにさわる。その途端、大爆発が起こってヘーレナとパリスは消え去り、ファウストは気を失って倒れる。
メフィストはファウストをかついで宮廷をのがれ、眠り続ける彼を、彼の書斎に連れ帰る。すでにファウストの出奔以来、何年も経っていて、以前の助手ヴァーグナーは、立派な教授になり、化学の力で人間を創造する実験をしている。メフィストはそれを手伝って、ガラス瓶の中で、小人間ホムンクルスをつくりあげることに成功する。そのホムンクルスの案内で、メフィストは眠ったままのファウストを自分のマントに乗せて、ギリシアのテッサリアの野へ飛んで行く。
昔、ポンペーイウスとカエサルが、運命的な戦いをしたこの野には、毎年その合戦の夜になると、ギリシア伝説のあらゆる人物や魔物が寄りあつまると言われている。ちょうどその夜、ファウストたちはここに到着する。そして、メフィストの提案で、三人は別れてそれぞれの目的を追求することになった。ファウストはヘーレナを探して、ギリシア伝説の諸地方をさまよい、冥界の女王に会って、ヘーレナと会わせてくれるように頼む。
ヘーレナは女王の許しを得て、地上の生を得、トロイア戦争に勝ったギリシア軍にともなわれて、もとの夫メネラーオスのもとに帰るが、メネラーオスの嫉妬のために殺されそうになる。それをのがれて、国境の北方民族の首領のもとへ行く。その首領がファウストである。ファウストとヘーレナは結婚して、二人の間にオイフォーリオンという美しい子供が生まれる。このオイフォーリオンは、ギリシアの独立戦争に参加するために空へ飛び立つが、墜落して死んでしまう。死んだオイフィリーオンを追って、ヘーレナも冥界に去る。ヘーレナが消え失せたのち、ヘーレナの衣装がファウストの手に残る。その衣装は雲となって、ファウストを高山の頂きに運ぶ。
美の理想の追求によっても満たされなかったファウストに、メフィストは、今度は王者の生活を送らせようと誘惑するが、ファウストは承知しない。反乱のために窮地に陥ったローマ皇帝を、メフィストの協力で助けたファウストは、恩賞として、広大な海辺の領土を与えられる。ファウストは干拓事業をはじめ、新しい国土建設をめざす。しかし、見晴らしのよい丘の上に住む老夫婦が、ファウストの悩みの種となる。ファウストは、その場所に高い足場を造って、自分のなしとげた事業を一目で見渡したいと思い、適当な代替え地と住居を提供して、老夫婦に立ち退きをすすめるが、老夫婦は承知しない。メフィストは、彼らを強引に立ち退かせることをファウストに提案し、許可を得ると、ファウストの意に反して、彼らを惨殺し小屋を焼く。ファウストがメフィストをなじり呪うと、メフィストは反抗の言葉を吐いて去る。
深夜、灰色の女「憂愁」が、鍵穴からファウストの住居にしのびこみ、ファウストと言葉をかわす。ファウストは「憂愁」に向かって、いままで自分は、ものごとを願望し、享受しながら「世の中を駆け抜け」てきたにすぎないが、今では、「この大地をしっかりとふみしめ」、地上で与えられた時を、有為な人間として過ごしたいという心境に到達したと語る。「憂愁」は、呪いの言葉とともに、ファウストに息を吹きかけて退散する。その息でファウストは失明する。しかし、ファウストの心の中には、明るい火が、輝きを増して燃え上がり、生涯をかけた事業を完成しようという新たな意欲が湧き起こる。
今度は人夫の監督として、メフィストが、登場する。山沿いの沼沢地を干拓して、そこに大胆で勤勉な人びとの住む国を作ることを思いついたファウストは、そのための工事をメフィストに命じた。しかし、メフィストは死霊たちをあつめて、宮廷の中庭で、ファウストの墓穴を掘らせている。目の見えないファウストはその工事の音を聞きながら、人びとが互いに助け合う美しい国を築くことを思い浮かべて感動し、思わず「そうなったら、私は瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう。とどまれ、お前は実に美しい!」と洩らす。そして遂に「私の地上の日のあとは、永劫滅びることはあり得ない。そういう高い幸福を予感して、「私はいま、最高の瞬間を味わうのだ」という言葉を発し、その場に倒れて死ぬ。
賭けに勝ったと思い込んだメフィストは、死霊たちを呼んで、ファウストを地獄へ運ばせようとする。その時天使たちがあらわれて、空からバラの花をまき散らす。悪魔たちは、そのバラの花に体を焼かれて退散する。天使たちはファウストの魂を天上に運ぶ。
魂が、地上を離れるにつれ、昇天した聖者や聖女や贖罪の女たちが現われる。その群にまじって、かつての愛人グレートヒェンが現われ、ファウストの魂の救いを聖母に願い、聖母の許しを得て、彼の魂を天国へ導いて行く。そして、美しく荘厳な神秘の合唱が、「すべて無常のものは映像にすぎず、人間が希求する完全なものは天上において実現される。われわれは永遠に女性的なものの導きによって、そこに到達しうるのだ」と歌ううちに幕がおりる。
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付記
15、16世紀のドイツに実在したといわれる魔術師ヨハネス・ファウスト博士の伝説を素材とした作品は、ゲーテ以前にも多くの詩人によって試みられた。ゲーテも少年時代に見た人形劇のファウストに強く心を惹かれ、20歳の頃この作品化を計画した。彼はこの作品の構想を生涯もち続け、26歳のとき『初稿ファウスト』を、次いでイタリア旅行を経て『ファウスト断片』を書いたが、ゲーテの人間成長とともにファウスト像も発展して、58歳のとき『ファウスト第1部』を書き上げた。さらに28年後の死の前年に『ファウスト第2部』がついに完成した。ゲーテの生涯をかけた大作で、世界文学における不朽の名作である。
「ファウスト」
著者: ゲーテ