Vol.8 「黒猫」 ポウ
下記の作品案内は、代表的作家の生涯・主要作品が要領よく解説され、さらに充実の翻訳文献を付した、現在入手しうる最良の文学案内として好評を得ている世界文学シリーズからの一冊、「アメリカ文学案内」(朝日出版社)より引用しています。 |
黒猫 The Black Cat(1843) 短編小説
エドガー・アラン・ポウ Edgar Allan Poe(1809-49)短編作家 詩人
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《狂気の世界》
1845年1月の『パイオニア』誌に発表された「告げ口心臓」と構成や内容の点での類似がみられる。両作品とも獄中の「私」なる人物の告白から始まる。自分は気が狂っているわけでは決してないと巧みな自己弁護から始まり、いかにして殺人行為に走ったか、その動機と過程を「私」なりに冷静に(?)分析、またいかにしてそれが発覚したかを物語る。その背後に自分の頭脳の明晰さをそれとなく誇る強烈で病的なエゴがちらつく。
《抑えきれぬ衝動》
幼い頃から「私」は気性がとてもおとなしく優しいという評判で、生き物好きだった。妻も同じで二人で「プルートー」(Pluto:「冥界の王」の意)という名の黒猫を飼っていた。やがて飲酒癖を募らせてきた「私」は他人の気持ちを無視するようになり、妻に対する暴言、暴力さえ加えるようになった。
ある晩酔って帰ると猫が「私」の姿を避けている気がした。悪鬼にも勝る憤怒から、ペンナイフで猫の片目をえぐり取った。翌朝犯した罪に対する恐怖と悔恨を感じたが、それもつかの間、「私」は再び酒におぼれ、罪の意識も酒の中にかき消えてしまった。
猫の傷も癒えたが、かつて慕ってくれた動物が、おびえて逃げ出す姿に会うと「つむじ曲がり」(Perverseness)の衝動が否応なく生じ、ある朝平然と猫の首に縄をかけ木につるして殺してしまう――涙を流し、激しい悔恨に胸をかきむしられながら……。その夜「私」の家が全焼した。ただ部屋の壁の一カ所だけが残って、その白い漆喰の表面には首に縄を巻かれた大きな猫の姿が刻まれていた。
《人間心理のゆがみ》
数ヶ月もの間、猫の幻影を払いのけられず悔恨に似た気持ちで過ごしていたある晩、酔いつぶれた酒場でプルートーそっくりの猫がいるのに気がつく。連れ帰るとこの猫はすぐ家になじみ、片目がなかったことから妻はますますかわいさが増し、そのお気に入りとなった。「私」にもなついてきたが、以前の残忍な行為を加えた記憶がよみがえり、やましさからかえって嫌悪をそそる結果となった。しかもこの猫にはプルートーとただ一つ違うところ、胸部全体に大きくて輪郭のはっきりしない白い斑点があったが、それは絞首台の形に似ていた。
ある日のこと、地下室の階段でついてきた猫のため下に落ちそうになり、カッとなった「私」は斧を振りあげたところ妻に遮られた。激怒は妻に向けられ、その脳天めがけて斧の一撃を加えた。妻の死体は漆喰と土を使って壁の中に塗りこめた。猫も殺そうとしたが見当たらない。
4日後、警官たちがやってきて建物中を調べた。死体の隠し場所など分かるはずもないと確信していた。その確信が抑えきれない喜びにかわり、むやみな空威張りから壁の死体を塗りこんだあたりを杖で叩きながら家の造り、出来映えなどを自慢する。とたんに中から子供のすすり泣くような押し殺したきれぎれの声が聞こえ、やがてそれが異様で人間のものとは思えぬ吠え声となり地獄でもなければ聞こえてこないほどの号泣の叫びとなった。壁を打ちこわした警官たちの前に、すでに腐乱し血のこびりついた妻の死体と、真っ赤な口を開け火のような片目をみひらいたあの猫が座りこんでいた。