ウォルター・クロンカイトが目指した「鏡(mirror)」となる「報道」とは?
「アメリカの良心」とも称されたCBSのアンカーマンだったウォルター・クロンカイト氏が亡くなり、彼への追悼の言葉を目にする機会が多く、改めて彼の功績と、テレビ・ジャーナリズムについて考えてみました。今回は、半ば「伝説」と化しているアメリカのアンカーマンたちが残した「言葉」に焦点を当ててみましょう。
私は、ABCのピーター・ジェニングス氏(故人)とアメリカの公共放送、PBSのジム・レーラー氏を見てきた世代です(ABC、PBSのニュースは共にNHKのBS放送で見ることができます)。政治家やメディア一般における「言葉の軽さ」を憂う声が多くなっている昨今、彼らの言葉を聴くとその「重み」と「説得力」に圧倒されます。
クロンカイトやジェニングスといったアンカーマンたちは、evening news と呼ばれる、 アメリカの報道番組の中でもっとも権威ある「3大ネットワーク」(CBS、NBC、ABC)の最終ニュース(その日最後のニュースショー)の司会者でした。彼らの伝え方一つで、国の方向性が変わるとも言われてきました。
ピーター・ジェニングス氏は、自分の発する言葉とそれが電波にのる事の威力をよくよくわかった上で「影響が大きくなり過ぎないように」気を遣っていたそうです。最近のアメリカのニュースショーでは、視聴者によりわかりやすく伝えるという目的があってのこととは思いますが、ニュース・アンカーの身振り手振りや表現が大げさになる傾向にあります。その中で、 ジェニングス氏などのベテランがアンカーを務めるニュースにチャンネルを合わせると、とても落ち着き、ほっとするところがありました。
彼らは、どのような思いでニュースを伝えたのでしょう? クロンカイト氏は次のように語っています:
■"Our job is only to hold up the mirror to tell and show the public what has happened." Walter Cronkite
(「我々の仕事は鏡を掲げることだ、社会に何が起きたかを伝え、見せること」ウォルター・クロンカイト)
クロンカイト氏は、アンカーは「鏡」であるべきだ、と言っています。「世相・社会」を映し出す鏡としての役割。この言葉は、どう捉えるべきでしょう? 余計な主観や演出の一切を省き、事実をありのままに映し出す、という意味での「客観報道」でしょうか?
実際、クロンカイト氏は、「客観報道」にこだわった人でした。でも、彼の言う「客観」とは、一般的に言う「客観」とはひと味もふた味も違うように思います。 というのも、 彼が比喩として用いた「鏡」とは、見る人によってそこに映し出されるものが異なるからです。
100万人鏡を見る人がいれば、100万個の鏡に映る「像」がある……。それだけたくさんの人が何らかの「想い」を抱き、自らを顧みる契機となる場を提供すること、それがアンカーマンの仕事だとするなら、そのためには繊細な表現力と豊富な経験、膨大な知識の裏づけが必要になるのではないでしょうか。
ピーター・ジェニングス氏が亡くなったとき、氏の友人で長年、雑誌"New Yorker"の編集者を勤め、テレビ司会者としても知られるケン・アウレッタ氏が次の言葉を残しています:
■"My friend Peter Jennings, who died last month...served their audience...day in and day out, Jennings..., tried to offer citizens information we need to make decisions for our democracy. The best journalists and the best officials are public servants." Ken Auletta
(「先月亡くなった私の友人ピーター ・ ジェニングス……は、視聴者……に奉仕しました。毎日毎日、ジェニングスは、……私たち市民が民主主義社会において判断を下すために必要な情報を提供しようとした。最も優れたジャーナリストと最も優れた官吏は、公僕(公共への奉仕者)なのだ」ケン・アウレッタ)
<public servant> をここでは 「公僕」 と訳しましたが、 「公=public」 に、「serve =尽くす」 人のことです。それはつまり、「エゴ(自我)」を極力削り、純粋に人々のための「媒体」=「鏡」となること、だと思います。ジャーナリズムを目指す人、あるいは公務員を目指す人たちは、ほとんど例外なく「人のためになりたい」という想いをその仕事を選ぶ端緒としているはずです。その中でも、圧倒的な輝きを放つ一握りの、クロンカイト氏のような人々。彼らの輝きはどこから来るのでしょう。
テレビ・ジャーナリズムの先駆者として知られる記者・アンカーにエドワード・R・マローという人物がいます。 数年前、 ジョージ・クルーニーがプロデュースしたことでも話題になった映画『グッドナイト&グッドラック』で若い世代にもその存在が知られるようになりました。マローは、その謎を解く鍵を示してくれています:
■"To be persuasive we must be believable; to be believable we must be credible; credible we must be truthful."Edward Roscoe Murrow
(「説得力を持つためには、真実味がなくてはならない。真実味を持つためには私たちには信頼性がなくてはならない。信頼性のためには、私たちは正直でなくてはならない」エドワード・R・マロー)
<truthful(正直)> 。 嘘をつかないこと、真実、<truth> に対して忠実であること。当たり前のことのように見えますが、たしかにクロンカイト氏、 ジェニングス氏、マロー氏といった、 テレビ・ジャーナリズムにその名前が燦然(さんぜん)と輝くアンカーたちはすべて、テレビを見る人に「この人は本心で物を言っている」と思わせる何かがありました。その「何か」とは?
大げさな表現を避け、与える影響が大きくなり過ぎないように、抑制の効いたニュースの伝え方をした……それが彼らの共通点です。伝えようとする気持ちが過剰になるあまり、本当に伝えたいことが伝わらなかったり、逆に見ている人の気持ちが冷めてしまうという皮肉な本末転倒は、日常生活でもメディアにおいても、よくあることです。伝えようという気持ちが急いてしまい、演出が過剰になると、それは「客観性」と「事実」という、ジャーナリズムにおいて最低限守られなくてはならない「約束」を犯しかねない誘惑として作用することもあります。
心は熱く、頭は冷静さを保つことは、大事件や災害などの「速報-breaking news」 を伝える時にはとても大切です。 ただ、 「アンカー」 に限らずジャーナリストに求められるのは、 何よりもまず「人間」であることだと思います。一人の人間として、そのニュース、 その場所、 その人に対してどういう感情を持つのか。そして「他の人々」はどう感じるだろうか、と想像力を働かせること。時には、抑えても抑えきれない「熱さ」があふれ出てくることもあるかもしれません。それがどこまで許されるのかは、伝える側と、情報を受け取る側との絶えざるコミュニケーションの中から結節点を手探りで見つけ出す作業を続けるしかありません。それは困難なことなのかもしれませんが、困難だからこそ挑戦する価値があると、 エドワード・R・マローは語っています:
■"Difficulty is the excuse history never accepts."Edward Roscoe Murrow
(「難しい(困難である)ということは歴史が決して認めることの無い言い訳である」エドワード・R・マロー)
抑制を効かせることによって、よりいっそう際立つ表現、あるいは真実。それは茶道や禅にも通じる考え方です。 「自分」 と常に向き合い、自分自身への批判的視点を持ち続けることが、他の人とのコミュニケーションを深める契機にもなる……アメリカの名アンカーたちの「伝える・伝わる」ことへの姿勢は多くを教えてくれます。







