「英語」の「社会」、「日本語」の「世間」
アメリカ合衆国で高校時代を過ごした私は、公立高校から私立女子校、いわゆる「プレップ・スクール」に転校しました。プレップ・スクール(プレップ・スクールとは?)で私が驚いたこと、それは、年配の先生と生徒の、「言葉遣い」をめぐるこんなやりとりです。
Student:Can I go to the bathroom (toilet)?
(先生、トイレに行ってもいいかな?)
Teacher:May? Please?
(よろしいでしょうか、でしょう?)
――たしなむように言われると、生徒は、まいどのことなのか「はいはい、わかりましたよ」といった雰囲気で言い直します。
Student:May I go to the bathroom, please?
(お手洗いに席を立たせていただいてもよろしいでしょうか?)
※「トイレ」をより丁寧に言いたい場合は bathroom ではなく lavatory (日本語では「化粧室」に近い)と言う。さらに本格的に丁寧には powder room (こちらはまさに「化粧室」)。
礼儀を重んじる伝統的なプレップ・スクールらしい注意です。
実は「敬語」のあり方は、英語と日本語では根本的に違います。
「相手」と「自分」の「立ち位置」を変えることで「敬い」の程度を表す「謙譲」や「尊敬」は日本語特有のもの。なぜでしょう?
西洋:「神―個人」の絶対評価システム
日本:「立場―立場」の相対評価システム
なのです。
西洋では、「神」が絶対であり、その神のもとでは、社会におけるさまざまな立場、身分の違いがあったとしても究極的には平等。重要なのは「神」と「個人」の関係です。日本では、「世間」というあいまいに規定されたフィールドの中で人々が互いに関係を結ぶための尺度はそれぞれの「立場」、つまり「社会的地位」。
このため、前回触れた「これからもよろしくお願い申し上げます」という、とても一般的な日本語のあいさつは英語にするのが非常に難しくなってしまいます。
『これからも(今後とも)よろしくお願い申し上げます。』
英語には存在しないあいさつですが…
無理やり訳してみましょう。
× Please be nice to me in the future as well.
→どうもおかしいですね。どうしてヘンなんでしょう?
◎欧米(西洋文化圏)では「甘え」になる
欧米人(あるいは西洋文化圏に育った人)がこれを聞いたら「何を甘えたことを言っているんだ?!」と驚愕(きょうがく)されることでしょう。西洋での人間関係とは、仕事を重ねることによって構築されるものであって、その実績がないのに「よく接してくれ」とは思い上がりもはなはだしい。しかも初めて会った人間に再会する可能性だってあんまりないではないか!ということになってしまいます。
◎日本では時間の「共有」が前提とされている
「世間」という同じ世界の中で共に生き、時間を共有しているので、初対面の人間にはこれからいくらだって会う可能性がある、互いに依存して生活しているのだから、という感覚があるんですね。だからこそ、何が起きるかわからない「未
来」においても「よろしく」ということができるのです。
では、英語では初対面のひとと会ったとき、別れるとき、どんなふうに言うのでしょう?
初歩的な英会話になりますが…
| 会ったとき:Nice to meet you. 別れるとき:It was nice meeting you. |
英語では、ただ、その瞬間「会った」ことに関してのみ「よかった」と言います。そして、次回の「出会い」の日時を明らかにした形で初めて See you~ と言うのが正式な形です。
See you (next week, in the afternoon, etc…)
(また来週、午後、などなど…)
~日本人が「今後ともよろしく」と言うとき、「今後」とは言っていても、実際には「未来」はたいした意味を持っていないのです。同じ「世間」という中で、「立場」を与えられ、「世間」によってお互いに「生かされている」、そして同じ「時間」を共有しているからこそ、初対面で、なんらお互いのことを知らなくても、「今後も(言ってみれば「永遠」に)」「よろしく」という挨拶を交わすことができるのです~
英語の society が明治時代に「社会」と訳されたとき、 それまでの日本的な「世間」は近代化とともに葬り去られたはずでした。…が、それは近代化を推進しようとする行政や学者の思い込みで、かれらの目指した「社会」と、市井の人々の間で存在し続けている「世間」…、ふたつのギャップが色々なところで噴出しています。
たとえばいま問題になっている、柳沢厚生労働大臣の「女性は(子供を産む)機械」という発言。「世間」という日本の伝統的価値観が、顔をのぞかせています。――人間には個人の人格などはなく、それぞれの立場によってのみ評価される。
「女性」という性に生まれたことは、確かに子どもを産む「機械」ということになるんですね。日本では「女性」のみならず、すべての国民をただの「機械」として捉える部分が厳然(げんぜん)と残っているのでしょう。
I am not a machine, I am a human being.
(私は機械ではありません、私は人間です)
同じことを英語と日本語の両方で書いてみますと、どうもなにやら英語のほうが「自由」とか「人権」とか、そういった思想の「軸」となるものが強く伝わってくるように思えます。英語で言われると
Yes! That's it! I'm not a machine!
I've got my own personality and feelings!
(そうだ! その通りだ! 私は機械なんかじゃない! 私には人格も感情もあるぞ!)
と拳を突き上げたくなります。
でも日本語だと「そうねぇ、まぁ確かに人間ですねぇ。機械ではありませんねぇ。でも時にはまるで自分が機械のように扱われているような気持ちになることもありますねぇ」と言いたくなってしまうような…。
Am I mistaken?
(気のせいでしょうか?)







