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2006年9月20日 (水)

アメリカから日本を見る-“Corporate America”

こんにちは。

まだどっこい生き残っている残暑の余波と秋の兆しが綱引きをしているような気候ですね。

街では、半そでのブラウスを 着ながらも、足元はブーツでいち早く秋をファッションに取り込ん でいる女性の姿をちらほらとみかけるようになりました。

さて、今回は Corporate America についてですね。

日本では、間もなく「安倍新政権誕生」の運びのようですけれど、 安倍官房長官は「格差社会」において「負け組」となってしまった 人のための「再チャレンジ推進」を提唱しています。

「機会の平等」を保障し、そして「再チャレンジ」を可能にする、 そうです。

「機会の平等」なんて聞くと、 アメリカの Equal Opportunity 論争を思い出してしまい、これが本当に日本の政策議論なのかしらと自分の耳を疑ってしまいます (Equal Opportunity=「機会の平等」とは)

でもまぁ、

Ya_2No wonder.
(それもそのはず。 wonder =「不思議」なことは何もなく)
  
竹中平蔵経済財政担当大臣が中心となり推進してきた日本の経済改 革は、アメリカ型の自由な市場を目指すということが根幹にあった のですから。

日本の金融市場における外資の台頭は目覚ましく、海外のヘッジフ ァンドの日本市場の投資は特に今年に入ってから劇的に増加しています。金融各社は世界中から日本に人材をかき集めています。

ニューヨーク証券取引所の値が届く瞬間に合わせて出社すると遅く とも朝7時には会社に入る。帰宅時間は午前2時、3時が当たり前 で、オフィスでは英語が飛び交い、屈強なアメリカ人トレーダーと 金融商品の値段をめぐって口角沫を飛ばしてやり合っているアナリストの友人が何人もいます。

彼らの姿を眺めながら私は

「これは Corporate America だ」

と思いました。

コーポレート・アメリカ。

これは「日本株式会社」のようにアメリ カの企業文化を表す言葉として多用されます。教育の最終目的は、 MBA取得。ネクタイをきっちり締め、少し時間が空いたら隣のビルのジムに行って体を鍛え、ひたすら年俸アップを目指してがむし
ゃらに働くカルチャー、それが Corporate America です。

社会 人になって数年間をそんなふうに過ごしたら、郊外に家を購入、子どもにも自分と同じような教育を受けさせる。

そうやってアメリカ式「勝ち組」が再生産されていく。

Ya_2I'm part of Corporate America myself, but...
(私はコーポレート・アメリカの一員だが…)

という前置きをよく聞きます。その後に続く言葉はたいてい、ややそんな 人生のあり方に疑問を呈するたぐいのものが多いような印象を受け ます。皆、それがメインストリームだから仕方なくそのレールに乗っているけれど、果たしてこれが本当に人間的な生き方なのかと自問自答しているのかもしれません

Ya_2Maybe they themselves are wondering whether they are leading humane lives or not.
(「果たしてこれが本当に人間的な生き方なのか」と自問自答しているのかもしれません)

Corporate America を、 「労働者の権利」を歴史上守り続けているフランスが自国に持ち込もうとしました。

ところが、肝心の労働者の猛反発にあい、政府は若者の雇用促進法を撤回しました。

それは、先進国の中では驚くほど手厚い「労働者保護」の包囲網を少し解いて、雇用の「流動化」を促進させようとするものでした。

一方で高度なビジネス教育を受けた若者がどんどん国外流出していっ ています。日本はこれからどんな道を選択していくのでしょうか。

Corporate America に似た日本語として思い浮かぶのが、 「日本株式会社」= Japan Co. ですが、 両者の経済のあり方は正反対ですから、注意しなくてはなりません。

Corporate America が弱肉強食の自由市場主義であるとするなら、「日本株式会社」はともすると「社会主義」と揶揄(やゆ)されることもある、国民一丸となって経済発展を遂げ、その利益を公 平に分配するというものだからです。

そして、過去10年間にわたる 日本の経済改革は、『脱「日本株式会社」入「コーポレート・ジャ パン」』と言うべきものでした。

ただ Corporate America を無反省に模倣するものではなく、 あ るいはジパングでも大日本帝国でもなく Corporate Japan を模索すること、「アジアの中の日本」について考えることが必要なのではないでしょうか。

Ya_2Just what kind of‘society’this‘re-challenge’(plan) is urging the‘losers’to challenge for, that is the question.
(この「再チャレンジ(推進計画)」が、「負け組」にチャレンジさせようとしているその「社会」とはどんな「社会」なのか、そのあり方が問われます)
→ that is a question の他の言い方

「変えなければならない」とばかり思ってしまう「社会」ですけれども、「なにかが変わるかもしれない」と思えることも起きます。

先日のラジオの番組でロイター通信から入ってきたニュースは、考えてみれば当然だけれど、それでも驚きなニュースでした。


Ya_2It's natural when you come to think of it, but it still is a surprising news.

(考えてみれば※1当然※2だけれど、それでも驚きなニュースです)

※1 come to think of =「考えてみれば」
「~について考えるに『達すると』」という雰囲気があります。ということで、「考えてみれば」「考えをめぐらせると」あるいは「考えるに至ると」になります。

※2「当然」
このほか course of naturerightly so (It's rightly so when you come to think of it...)、 reasonably sojustly so などがあります。 so は付けなくても意味は通じますが、「そのようになるのは」がこの so に省略されるので意味が全体として通じやすくなります。

「当選すればアメリカ初のイスラム教徒連邦議会議員誕生か、ミネソタ州議会議員のKeith Ellison(キース・エリソン)、 民主党予備選挙で勝利」というニュースを、私は伝えました。

新聞の見出しではこんな文句が踊りました。

Ya_2Historic Primary Takes Shape In Minnesota
(ミネソタで歴史的な予備選挙)

60年代の Black Power Movement =「ブラックパワームーブメン ト」でも、イスラム教の影響力は強力だったし、モハメド・アリになったカシアス・クレイだって改宗したわけだし、イスラム教徒ってアメリカにたくさんいると思ってはいたので、今まで連邦レベルの議員にイスラム教徒がいなかったというのは、ちょっと驚きだったわけです。

イスラム教徒ってアメリカ合衆国にどれくらいいるのでしょう?

一説には、50万人から80万人くらいだとも言われています。でも実際には、その数を把握するのは難しいそうです。

「移民」としての イスラム教徒と、アメリカ市民が改宗してイスラム教徒となった場 合では所属団体なども含めてだいぶ違いますし、不法移民として世界各地からやってきている場合は数えたくても数えようがない。

ミネソタ州予備選挙で正式に連邦下院の民主党候補に選出されたエリソン氏は、 African American =「アフリカ系アメリカ人」です。しかも彼は、当選すればアメリカ初のイスラム系下院議員になるだけでなくミネソタ州から選出される初の African American の議員になるかもしれないんです。

彼は diversity =「多様性」の象徴として移民層を中心として強い支持を得ているようです。

前回は、 アメリカの class society =「階級社会」は「人種」と切っても切れない関係にあるため、単純に日本の「格差社会」あるいは「階級が生まれつつあるように見える」 日本での現象をアメリカの class society と並列して考えるこ とはできないといったことをお伝えしました。

エリソン氏の登場は非常に大きな驚き、そして期待をもって迎えられています。この期待とは、イラク戦争や移民対策といったさまざ まな大きな政策に対する、宗教と人種間の「違い」が強調されがちな昨今のアメリカにおいて、

「違いを乗り越えていく」ことへの期待です。

「違いを乗り越えていく」
get over the differences (乗り越える、に近い)
overcome the differences (超克する、克服する、に近い)
go beyond the differences (むしろ<超越する>に近い)

ただ、忘れてはならないのは、アメリカ合衆国では「富」は、

dividing factor
階級格差といった「『分裂を生む』ファクター」

である一方で、

unifying factor
「富」を求めて誰もが公平に競争に参加するという次元において「『統一への』ファクター」

でもあることです。

多民族から構成されるアメリカ合衆国では「統一」という言葉は非常に特別な響きを持っています。

何か大きな問題があると、

America divided 「分断されたアメリカ」

America unified 「統一されたアメリカ」

というようにすぐ人々の意見、あるいは気持ちが「まとまって」い るのか、それとも「ばらばら」なのかどうかが議論の対象になります。

イラク戦争ならびにイラクにおける米軍の関与においては、当 初 divided であったものが、 最近では「反対」という方向に、 unified されつつあります。

英語では例えばこのように表現します:

Ya_2Americans used to be divided over the Iraq War, but now they are unified in opposing the continuing presence of the U.S. army in Iraq.
(アメリカ国民はイラク戦争に関してばらばらの意見を持っていた が<「意見」という単語は省略されます>、今では米軍のイラク駐留継続に対して<一致団結して>あるいは<まとまって>反対 している)

ブッシュ政権の支持率が下がってゆくにつれ、アメリカ合衆国は本来の自国の外交政策の基本にあった non intervention =「非介入」に立ち戻るべく unified =「統一され」つつあるように見受けられます。

一方で、日本社会をむしばむ「格差」= economic gapeconomic divide や、「高齢化問題」= the problem of aging society 、「財政赤字」= budget deficit といった 諸問題は日本をより一層の「分裂」= division へと向かわせているようです。

たしかに「改革」をせずに「増税」でごまかそうとする方や、内外政策(domestic and foreign policies)ともにネオコンの親分気取りの方に比べますと、内政ではどっちつかずの安倍官房長官のほうがまだマシなのかしらむ、などと思ったりもします→どっちつかずを英語で言うと )。

それでも彼の圧倒的な強さを見るにつけ、どうも自由民主党は明日の division のために unified されているような気がしてなりません。

まあ、「どっちつかず」なのは彼が提案している「美しい国」が「内政」では一体何を目指しているのかわからないからなのですが、ここで一つ疑問があります。

「美しい国」は A Beautiful Nation でしょうか、
それとも The Beautiful Nation

どちらの訳を安倍官房長官は選ばれるでしょうか?
不定冠詞 a ですと、 「複数ある美しい国の中の一つ」としての「日本」、定冠詞 the ですと、 まさに「唯一無二」の、これぞ 「美しい国の象徴」ともいうべき「美しい国=日本」になります。