Vol.10『誰のために法は生まれた』

私が幼い頃出版された父の著書(*)に、算数で59−20が理解できずに困っている私と、父のやりとりが記されている。
私「引くってどうすることなの?」父「引くってのはとっちゃうことだよ」「???」
父「たとえば、誰かにあげちゃうことだよ」
この言葉を聞き、私は嬉々としてすでに絵に描いていた10円玉2つを、箱に見立てた四角で囲み、リボンを飾って「20円はお誕生日のプレゼントにあげる」とした。
そして残りの10円玉と1円玉の絵を数え直し「残りは39!」と答えたという。
これが「わかる」ということの原体験だ、と続くのだが、私はその後、学校の授業で学ぶということは、想像したり、感じたりして「わかる」ことではなく、覚えて解くことが正解で、都合が良いことだと悟るようになっていくのだった。
ところが長年この「わかる」ことの喜びを忘れていた私の目を覚ましたのが、木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)だ。
帯文にはこうある。「この授業で大切なことは、感じること、想像力を研ぎすませること。」学校の勉強に、想像力は必要だっただろうか。「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基なんだ。」ともある。
感じることから「法」の核心に迫り、それがたった一人のだれかを守るものなのであれば、私も知りたい。そんな期待で胸をバクバクさせながらページをめくった。
5日間の授業は、映画「近松物語」「自転車泥棒」やローマ喜劇、ギリシャ悲劇を参照し、古典の持つ懐の深さを使って想像力を刺激しながら「法」の概念を感覚的に掴みとらせていく。自由に発言する生徒たちに「そうだ、すばらしい」「その通りだ!」と先生は陽気に応じ、「ちょっと跳んでみようよ」と更なる高みに誘う。
政治とは本来何なのか。法と占有の原理を学び、存分に「感じること」を体験した後、いよいよ判例集を読み、パズルの最後のピースがぴたりとはまるように全てがつながる見事なラストを迎える。
感じること、わかること、学ぶことの、のびやかな歓び。知の世界にひらかれた授業。「法」というものの本来の姿、古典の奥深さを味わい、そして、あーそうだったのか!と心底納得し、幸福感で満たされる。
すべてを問い直し想像力を研ぎ澄ますー本物の勉強を、さあ始めよう。
(*)佐伯胖『コンピュータと教育』(岩波新書・1986/品切れ)