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Vol.8『断片的なものの社会学』

評者:ちくさ正文館書店ターミナル店/赤阪泰志さん

「社会学」とタイトルにあるけれども、この本はこれまで読んだ社会学の本とはずいぶん趣が異なる。


というのは今まで読んだものはそのほとんどが、調査した事実を先行研究に照らし合わせて意味づけをするというもので、自分の言葉でその研究対象について、思うところを語ったりということはされていなかったからだ。


それらの本で社会学者たちは、先行研究のなかから相手の言葉を拾い上げていく過程でその語りについて、「あなたの話はとうの昔に我々の言葉で語られている」とラベリングしていくのではないかと感じられた。


けれどもこの「断片的なものの社会学」という本は、それらとは違ったということなのだ。この本を読んで感じたのは、他者のそれぞれの事情をあえて自分の言葉で語りなおすことは「無作法」なのであろうということだった。


学問という枠の中で考えると、いろんな事実についてラベルをつけていくことは当たり前のことで、それ以外の手法は学問の外でやってくれということかもしれない。けれども現実の社会で起きる出来事には、そんなに簡単にラベルをつけたり意味をつけたり出来ないものなのではないかと思う。


学問の世界でなされていることは、その世界では作法に則っているといわれればそれまでだが、実社会では違和感を感じてしまうのは私だけではあるまい。


書店に勤めていると、出版社から販売データを見せられ、「こういった動きをしているので御社でも展開してください。」とか、「この本は初速が良いので注目しているんです。」という話をよく聞く。


POSデータというのは今では一般の方でもその存在を知っているくらいあたりまえのもので、人間の消費動向を知る上では欠かせないものだ。でも売場で本を売っていると、ひとりひとりの事情があり、いろんな動機から本を手にするのを目にしているので、個人的には単純にPOSデータを人と結びつけて考えることは難しい。


それは、データにされた数字には人格がないないからだ。けれどもその数字は実は我々ひとりひとりが、さまざまなものを「欲しい」と思った証しだということは忘れてはいけない。データとしてラベル付けされた情報をどう読むか。経験を裏付けできるように活用できれば、その数字たちは生きてくるのだろう。


そしてそれは、社会学でなされている「質的調査」と「量的調査」の関係性にもつながってきそうだ。この本の著者は学者でありながらあえて、社会学の手法で語ることをせず、見たり聞いたりしたことをそのまま私たちに提示してくれている。


それはタクシー運転手だった路上のギター弾きであったり、元暴力団員のわけのわからない話であったりである。そしてそれを読んだ我々は、その話に共感できたりできなかったりするのである。


私たちは自分自身が対象者に共感できるかどうかを決めるときに、何を基準にしているのだろう。アダム・スミスは公平な観察者が自分のなかにいることが、道徳性の根本であるといっていたように思うが、著者の立ち位置はどうもそれとは違うのではないだろうか。


道徳的に生きることがすべての人に真実である必要も無く、世間から不道徳であるとしか見られない生き方にも真実はあるのだろう。公平な観察者として社会を記述することはたやすいが、対象者によりそいすぎることで公平性を失い、おろおろしたり、悲しんだり、喜んだりすることでしか見えないものはかならずあると思う。


著者はそんなふうに、さまざまに一喜一憂し、ある意味不公平に社会と関わることを実践していくことで、私たちに世の中の面白さを、「別のかたち」で見せようとしているのではないかと思わされた。


私は書店の店頭で、いろんなひとたちのいろんな言葉を目の前で耳にしている。それはまさに「こんな場所で話さなくても・・」と思わされるような個人的なストーリーがほとんどだ。でも私はその言葉たちをなるべく、「消化せずに持ち続ける」ことが大切なのだと思い続けてきたが、そのことはじつは本当に大変で、そんなに長く続けられるものではないなと思ってきた。


けれどもこの著者のような方が世の中にいるのなら、もう少しくらいはやってもいいかと思わされた。そういう意味では、この本に勇気づけられたひとは、私の他にもいるのかもしれない。 


    9784255008516_2    『断片的なものの社会学』 (岸政彦著)

赤阪泰志さん

愛知県名古屋市・ちくさ正文館書店ターミナル店にて語学・学参を担当されて30年。いつもありがとうございます。

2018/09/12